死というもの
- 2019.11.24 Sunday
- 23:47
昨日から帰省して富山に。
母は随分回復してきたけど、気になる点もいくつか。
今はずっととろみ食なのだけど、普通の食事ができるようになるのかどうか。
唇の震えは止まるようになるのか。
介助は得るにしてもトイレで用を足せるのか。
サ高住でも受け入れ側の都合があって場合によってはダメかもしれないらしい。
明日は、サ高住の看護師、介護士などが母の様子を見に来てそれを判断するのとのことです。
まあ、でもどんなことがあろうとも私としては母が生きていてくれただけで嬉しい。
今日の母はとっても饒舌でした。
テレビの相撲中継を観ながら、相撲取りの年金はどうなのとか、白鵬は帰化したの、結婚しているのとか質問攻めにあいました。
かなりいつもの母に戻ってきてくれたような気がします。
ところで母の入院する病院は急性期の人ばかりが入院していて、救急患者も多く運ばれてきます。
土曜日の午後、日曜日は休日出入り口の傍にある救急室、MRI撮影室の前の待合スペースは人で溢れています。
救急搬送された人の家族だと思いますが、みな不安そうな顔をしています。
電話で家族に連絡を取り合っている人もいます。
廊下から垣間見える救急室には、救急車のストレッチャーからベッドに移される患者さんの姿や、医師や看護師があわただしく動く姿があります。
時々、警官の姿も見えます。
事故、あるいは事件もあったんでしょうか。
そんな救急室を通り過ぎるたびに、二週間前の母もそんな状態だったことを思い出してしまいます。
おそらく亡くなってしまっただろう人の家族が泣きながら出てくるのを見るとなんとも言えない気持ちになってしまいます。
おそらくその病院では死が日常なんだろうと思います。
そんな病院の救急室の前を何度も出入りしていると死について考えざるを得ません。
人は自分の死よりも、愛する人の死を恐れるんだと思います。
祖父母、父が亡くなった時は本当に悲しくて辛かった。
幼い頃、大好きだった祖母に、
「僕が生まれる前に死んでいてくれたら良かったのに。そしたら僕は悲しまなくて済むから」
と言ったことがあります。
その時の祖母の悲しい顔を今でもはっきりと覚えています。
でもそんな悲しくて辛いことがある代わりに、生きている間に楽しいことも沢山あるんですよね。
そして楽しいことって、自分一人の楽しさではなく、愛する人が一緒に楽しんでくれることなんですね。
この歳になって思い出す楽しい思い出といえば、祖父母や父に孝行をして喜んでもらったことばかり。
それが自分自身の幸せにも繋がっていることなんだと思います。
以前にも書いたけど、幸せな老人になれるかどうかは、どれだけ愛する人を幸せにしたかで決まるんだそう。
社会との接点が無くなっていく中でも、そうして思い出が沢山あれば幸せを感じられるのだそう。
私も63歳。
残りの人生は、愛する人に喜んでもらえるために過ごそうという思いが一層強くなりました。
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